和蝋燭の空間

マンマミーアでは『間』の会期中以下のイベントをします。
http://m----a.blogspot.jp/
作り手による「間」の座談会と、岡安圭子による詩の朗読会
2013年3月30日(土)17:30〜
(座談会17:30〜 朗読会18:20〜)
参加費/2,000円(軽食あり)
定員/30名 ※予約制
開催場所/gallery-mamma mia
岡安圭子 http://www.okayasukeiko.com/
和蝋燭を作っている大西巧さんの手で灯された空間です。
大西巧 http://www.warousokudaiyo.com/
【ご予約・お問い合せ】
☎0748−86−1552(マンマミーア)
その空間は、和蝋燭で灯す空間で
実際に和蝋燭を作っている大西さんに来ていただき、空間を作っていただきます。
その大西さんから今回のテーマに関して、コメントを頂きました。
大西さんは瀬戸内生活工芸祭にも出展されていたので、ご存知の方も多いと思います。
大西巧 http://www.warousokudaiyo.com/
以下、大西さんよりコメントです。
■「間」
間というテーマを与えられ、そのことをずっと考えていると、間という概念がなんと広範を含有するものか、と驚いた。時間、空間、瞬間…。世間にも間があるし、合間、手間。当然といえば当然だが、人間もそうだ。人も間を有する存在だったとは、と今更ながらに思う。人と間の関係はやはり深いものなのだと。
ところで、蝋燭と「間」のお話。
蝋燭は、小間を照らす道具として生まれた。それは電灯という西洋の照明器具が持ち込まれるまで続いた。照明器具が蝋燭から電灯に変わっていくまでの中に、間にもつ私たちの感覚は変化してきている。
電灯照明は、すべてを明るみに晒し出すことを可能にした。そのおかげで、闇に対する恐怖は薄れ、明暗は境界線を濃くし、輪郭をはっきりさせた。
このことは、日本人の美的感覚に対しても、影響を及ぼしている。雨風を凌ぐために、庇の長くなった日本家屋では、おのずと暗がりの中で生活することとなった。それが熟して、漆器のもつ黒はより重く、金はより沈痛に感じる美的感覚を生んだ。
ぼんやりとしたものや、曖昧なもの、なんだかわからないもの、つまり感覚的に対処しなければならないものが、電灯照明とともに間の中から消えた。
なんだかわからないもの、というのはつまり自然である。風、水、土、火。これらを遠ざけ、間の中にある独特の雰囲気を感じ取る感覚や神秘的なものを感じ取る感覚が人の間から抜け落ちかけているのではないかとさえ思う。
蝋燭は限りなく自然に近い存在である。火は自然そのものであるし、燃焼という現象もまた自然。人の意図とは無関係に起こる現象事象はすべて自然。人智及ばざるゆらめきや、明滅を繰り返し、無に還るのが蝋燭である。
蝋燭は、火を照明として利用できるように、なんとか火を扱いやすくするための道具として生まれた。人と自然の間を離しすぎず、詰めすぎず、両者間の共有範囲を広くして、保たれながら、生まれた道具と言える。
そのため、手がいる。放置できる代物ではない。特に和蝋燭は間を計って、伸びすぎた芯を取り除く、という手がいる。つまり手間がいる。これが蝋燭を美しく燃焼させるために必要なことなのだが、いくつもの「間」の中において、こういうことが成立していることを考えると、なんとかけがえのないものだろうと思うのだ。
無論、現代の生活を昔の生活水準に戻そう、と提唱するわけではない。自然というものと対峙したときの「間」を感じられる能力を養う一つとして、和蝋燭というものを認知してもらうと、和蝋燭をかけがえのないものと思っていただけるのではないだろうか。
※参考文献 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、養老孟司『かけがえのないもの』